人間は何をどうやればいいのかがよく分からない時、試行錯誤します。その際に「楽しい」という感覚は継続のための道しるべになります。楽しく試行錯誤すること。それは「遊び」と呼べるものでしょう。遊ぶことによって人は未知のものに挑戦し、それに親しみ、そこに法則性を見つけ出し、克服することができるようになります。

 子どもにとって遊びが大切なのは誰もが認めることだと思います。子どもは、生まれ落ちるとともにこの世界の未知との格闘が始まります。遊びを通じて世界を学んでいくことは、とても自然な営みですね。

子どもは遊びながらさまざまなことを学んでいく

 一方で、大人はどうでしょうか。現代社会は私たちに、いつでもまじめであれという圧力をかけます。やるべきことがはっきりしており、それさえやれば明るい未来が来ると信じられるからこそ、それだけに自分の力や時間を集中させ、それ以外の余分なこと、つまり遊びを排除し、楽しいと感じることすらも戒めていく。これが「まじめ」の美徳と手口です。

 それがうまく機能した時代もあったでしょう。しかし「辛くても今それをやっておけば、やがてはより良い状態になれるよ」と言えるのは、何をやるべきかが明白なときだけです。この混迷の時代、あなたはそのような約束された明るい未来を信じられますか? 私は信じきれません。だから、意識的に不真面目でなければならない、つまり遊びを仕事(やるべきこと)の中にきちんと組み入れないといけないと思っています。これは、自身の未来予測能力の限界を自覚した、ある種の謙虚さとも言えるでしょう。

 ふまじめであることから、思想や技術の革新は生まれるのです。なぜなら新しいことというのは、今まで正しいと思っていたことの外側にあり、ふまじめに余計なことをしない限りは、到達できないものだからです。

 人類が遊ぶのは、世界の不確実性に対処するための、生存戦略のひとつなのではないでしょうか。これまでその性質が自然淘汰(とうた)されずにわれわれの中に残っているのは、よほどそれが強い力を持っていることの証でしょう。

 もしかしたら、人類史の中で「まじめ」が良かった時代よりも「ふまじめ」が良かった時代の方が長かった可能性だって、十分あり得ます。皆さん、遊びを大切に。

(栗原一貴(くりはらかずたか)・津田塾大教授)