2度目の佐野市散歩。JR佐野駅前の通りには、クレープ屋さんやサンドイッチ店など魅力的なお店が多いなぁと思いながら歩いていると、道がカーブする真正面に「人間国宝田村耕一(たむらこういち)陶芸館」の看板が現れた。人間国宝が佐野に? 陶芸と言えば益子じゃないの?

 気になって入ってみると、館内には本当に同じ人が作ったのかと驚くほどいろんな雰囲気を持った作品が! 田村耕一とはどんな人物だったのか、孫の田村田(でん)さん(48)にお話を伺った。

祖父の思い出を語る田村田さん

田さんは子供の頃、お年玉の収入がなんと40万~50万円もあったそうだ。なぜなら、正月には全国から多くの陶芸家たちがあいさつや助言を受けに佐野の田村家を訪ねて来ていたから。耕一は、そんなにも人望が厚い人だった。

 家族に対しても優しかったが自分には厳しく、どんなに売れてからも、李朝の作品と自分の作品を棚の上に並べ、引けを取らないかと比較していた。制作が行き詰まった時は自殺まで考え、線路に歩いていった耕一を家族が止めたこともあったという。

 若く貧しい無名時代を支えたのは、妻の豊(ゆたか)さん。戦後、陶芸のために京都へ益子へと佐野の家を離れていた耕一に代わり、豊さんは絵画教室を開き、その稼ぎで田村家の家計を支えた。

窯出しをする田村耕一(田村田さん提供)

 陶器を焼く窯を佐野に作る資金を銀行から借りられなかった時には、地元の人たちが支援金を持ち寄り、窯を築きあげることができた。「最初の窯開けの時、その皆を呼んだら正装で来てくれたのがとてもうれしかった」と、耕一は田さんにも語っていたという。

 支援者の一人の本屋さんは、「百科事典をたくさん売ったら欧州旅行」という出版社の販促企画を見て頑張って大量に販売し、耕一に西洋芸術を見せるために旅行をプレゼントしてくれた。

 なんて地元に愛された、“いいね”な人だろう! だから1986(昭和61)年に人間国宝となった時、耕一は「応援してくれる人たちに恩返しできてホッとした」という。

 この陶芸館では今、田さんが孫だからこそわかる独自の世界をプロデュースした企画「田村耕一の陶板と名品展」が開かれている。会期は2月27日まで。