
高校時代は、毎日が楽しかった
田村と吉岡監督、共に忘れられない試合がある。
2006年の全国高校ラグビー選手権県予選の決勝、佐野高校との戦いだ。その年の5月の県高校総体で國學栃木は佐野高に敗れていた。「もともとそんなに強い代じゃなかった。3年も少なかったし。佐野にも負けていたし、他校には外国人留学生がいたりして強かったです。連覇をしていたのもプレッシャーだったし、とにかく花園に出ることが一番の目標だった」と田村は振り返る。
佐野高は22年ぶりの花園を目指し準決勝は97-0と佐野松陽高に圧勝するなど好調だった。國學栃木は準決勝で作新高を田村のトライなどで17-5と破り、決勝に駒を進めた。決勝は雨中の大接戦となった。
「苦しんで苦しんで、奇跡の逆転勝利だった」(吉岡監督)
開始早々佐野高にペナルティーゴール(PG)で3点を先制される。田村も守備に追われ、リスクを避けてキックで切り返すなど慎重なプレーが続いていた。後半24分、残り5分余りとなったところで得たPGを田村が成功させて同点に追いつく。「抽選か」と吉岡監督が思い出した後半ロスタイムに相手キックをキャッチした田村がカウンターに転じる。突破を図りWTB宇賀神文彦にラストパスをつなぐ。自軍ゴール前から約75mを反撃し決勝トライ。コンバージョンも田村が決めて10-3で逆転勝ち、7連覇を果たした。
「あれは國栃史上に残るトライだよ。最高の恩返しをしてくれた、よくたすきをつないでくれたと感謝した」と吉岡監督は昨日のことのように振り返った。田村は「負けるかな、と思ってプレーしていたんですが。でも最後勝てましたね」と淡々。田村は「毎日が楽しかった。とにかく楽しかった。それだけ。いろんな経験をさせてもらってそれはすごく良かった」と高校3年間を振り返った。
國學栃木にはもう1人、田村と縁のある人物がいる。
2014年から同校の教師になり、ラグビー部で吉岡監督の右腕として部員を指導する浅野コーチだ。
浅野コーチはトップリーグのNEC一筋に12年間プレーをした。本郷高(東京)から法政大に進み、NEC入社は2002年。03年に日本代表に選出され、03年、07年のラグビーワールドカップに出場。NECでもキャプテンを務めるなど活躍。代表キャップ22、NECでは167試合に出場した。12ー13年シーズンで引退し、吉岡監督からの誘いを受けて同部コーチに就任した。
「高校卒業時から指導者になろうと思っていました。大学時代とNECに入社してから、高校教員免許を取得しました。実は義理の弟が國學栃木でラグビーをやっていて、その当時、指導に来たこともあるんです。そんなこともあって、吉岡監督から声をかけていただいて」と経緯を話す。
田村の父・誠さんとは日本代表でコーチと選手として関係があった。さらに、田村がNECに入社した時はキャプテンだった。「新人の時から思ったことを口に出して話し合う、コミュニケーション能力が高かった。グラウンドでは先輩後輩関係なく、真摯に対話していた。ラグビーに対してすごくまじめだった」と田村の印象を話す。
田村は浅野コーチについて「すごい選手でしたね。練習から毎日先頭に立って一生懸命、全力でプレーしている。みんなに尊敬されてましたね」と言う。それぞれのプレーについて、田村は「体を張る選手でした」、浅野コーチは「ひらめきと発想がすごい。視野の広さ、空間認識の能力は人並外れている」と評する。「いつかは指導者になるんだろうなとは思っていた」と田村。再び母校で顔を合わせることになった。
田村は「人生で最も影響を受けたのは吉岡先生」と言う。吉岡監督は「500人以上の教え子がいるけど、まず一番に頭に浮かぶのは田村だよね。教え子の筆頭だもの。いまや全日本の中の全日本選手だし、これからも楽しみだよ」と話す。
2人の間の絆は深い。