
軍人のいた日 宇都宮・14師団 ④兵士(上)
戦後テープに残した本音
「騎兵隊として初めて華々しい乗馬襲撃を行った。歩兵部隊が駆逐した敵を背後から襲い、戦果を上げた」。カセットテープから流れる声が上ずったように聞こえた。
宇都宮を拠点とした陸軍第14師団の軍人だった入内澤清文(いりうちざわきよふみ)さんが戦後30年の頃、地元ラジオ局に語ったインタビュー。昭和のあの時を回想した、20分ほどの録音テープが長男滋夫(しげお)さん(72)=宇都宮市宮町=の手元に残る。
清文さんはインタビューから数年後の1980(昭和55)年、65歳で亡くなった。

群馬県出身の清文さんは19歳で、第14師団騎兵第18連隊に入った。日本が国際連盟からの脱退を通告し、孤立への道を歩んだ年だった。入隊10日後には満州へ。一時宇都宮に戻ったが、日中戦争が始まった37年、中国大陸へ派遣された。
「十数人いた将校のうち、帰って来たのは7、8人。後で遺体を見ると、裸にされ泥の中に埋められていたという悲惨な戦闘をしていた」。インタビューで戦いの様子を話した。騎兵隊による乗馬襲撃も、この時の話だった。

日中戦争が長期化していた40年、第14師団は宇都宮から満州に永久駐屯となった。清文さんの本音がテープでうかがえる。
「満州は非常に平和でいい所で、今までのような戦争の殺伐たる気分はなかった。14師団全部、浮き浮きしたような状態だった」。だが、その1年後には太平洋戦争が勃発した。
第14師団が終戦を迎えた地はパラオ諸島だった。激戦地となり、ペリリュー島では日本軍の約1万人がほぼ全滅。アンガウル島では約1200人が戦死した。清文さんは本島でアンガウル島へ派遣する兵士の人選などに当たった。

テープの最後には、パラオへ向かう際の心境が触れられている。「船の停泊中に盲腸で下船した人がいた。俺も盲腸にならないかなと思ったけど、ならずじまいだった」
清文さんは終戦後、妻の出身地で、かつて第14師団があった宇都宮へ戻り、民間企業で働いた。
長男の滋夫さんは20代の時、ラジオで父の戦争を知った。家族に多くを語ることはなかったという。
戦後80年となる2025年1月中旬、下野新聞社の取材を通して久しぶりに父の声に耳を傾けた。「こんなことがあったんだと、多くの人に知ってもらいたい」。後世に伝えるため、テープをデジタル化して残そうと考えている。
日中戦争 中国・北京郊外で日中両軍が衝突した1937(昭和12)年の盧溝橋事件をきっかけに、全面戦争へ突入した。上海や天津など中国各地で戦闘が起き、陸軍第14師団も派遣された。戦いが泥沼化している中で、41年に太平洋戦争が始まった。
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