かつて鉱都と呼ばれたまち。
歴史から学び、伝える

 日本一の鉱都、日本の公害の原点、過疎の町-。さまざまな姿を見せてきた足尾は近現代、そして将来の日本の縮図のように見える。
 煙害などで荒廃した山に、緑は戻りつつある。一方で町に、ヤマの名残は薄れつつある。先の50年には何が残り、何を残すべきなのか。足尾が今、発信するメッセージ「銅(アカガネ)のこえ」を受け止め、伝える。

special第5章・次代へ

足尾について

足尾銅山

 足尾銅山は江戸時代、幕府の御用銅山として本格的に開発された。明治になり1877年、古河市兵衛が買収。品位、鉱量とも優れた鉱床「直利」の発見やさく岩機の開発などで、年間産銅量が日本一の銅山に成長した。

 町には労働者とその家族らが集まった。町人口は1916年に3万8428人となり、宇都宮に次ぐ県内第2位の都市へと発展した。映画館や劇場が並び、生協などもあった。

 一方で環境破壊も生み、煙害は草木を枯らし、町北部の村を廃村に追い込む一つの原因となった。製錬過程などで出た鉱毒は、渡良瀬川下流域で農作物などに被害を与えた。この鉱害は足尾鉱毒事件と呼ばれ、日本の公害の原点といわれる。

 銅山は昭和初期にかけて繁栄したが、鉱源の枯渇などから73年2月28日、閉山した。閉山後は過疎が深刻化。足尾町は2006年、日光、今市、栗山、藤原の4市町村と合併し、日光市の一地域となった。足尾地域の人口は23年1月1日現在、1573人。

 草木を失った山では現在、NPO法人などにより緑を取り戻す活動が続けられている。近年は産業遺産が注目を集めている。

prologue特集「アカガネのこえ 足尾銅山閉山50年」について

 日本一の鉱都、日本の公害の原点、過疎の町-。さまざまな姿を見せてきた足尾は近現代、そして将来の日本の縮図のように見える。
 煙害などで荒廃した山に、緑は戻りつつある。一方で町に、ヤマの名残は薄れつつある。先の50年には何が残り、何を残すべきなのか。足尾が今、発信するメッセージ「銅(アカガネ)のこえ」を受け止め、伝える。

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