「#あちこちのすずさん」では、NHKや全国の地方紙、ネットメディアが連携して、戦時下の暮らしにまつわるエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みをしています。今回は、神奈川新聞に寄せられたエピソードを紹介します。

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 1945年5月29日、女学校2年生の私は横浜大空襲に遭遇しました。

 その朝、登校して間もなく空襲警報。校舎を出て運動場の土手に掘った防空壕に先生と数人の生徒で入り、激しい爆音に身を屈め、じっと堪えました。げた履きだった私は滑る壕に足を取られて、鼻緒が切れてしまいました。

 先生が「ここは危険だから、校舎の先にある兵隊さん壕に逃げなさい」というので、地面のあちこちに炎が上がる校庭を、げたをぶら下げて裸足で駆けて、隣地の壕に助けを求めました。

 すると兵隊さんの一人が腰の手拭いを裂いて、鼻緒をすげてくれました。

 どのくらいの時間が過ぎたのか、壕の外に出ると、校舎の隣の副校長先生の家は焼け残っていました。

 帰宅しようと駅に向かったのですが、余りにも無残な焼け跡に、焼けただれた亡きがら。赤ちゃんを背に防火用水に倒れかかっているものもありました。とても家まで戻れないと、結局は学校へと坂を上っていくしかなく、その日は副校長先生宅に泊めてもらいました。

 翌朝、塔も校舎も全て焼失した学校で、ただぼうぜんとしていると、私を捜しに来た兄が声を掛けてくれました。

 何度となく空襲警報のサイレンに脅かされた日々。自分の学校が焼け落ちる時に居合わせた胸の詰まりを、いつか伝えたいと思っていました。90歳になった今も、母校が消えていった姿を、その炎を、煙を忘れることはできないのです。

(女性、90歳)
*投稿者の年齢は2021年8月時点

「#あちこちのすずさん 生き抜いた苦難の日々」神奈川新聞