「#あちこちのすずさん」では、NHKや全国の地方紙、ネットメディアが連携して、戦時下の暮らしにまつわるエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みをしています。今回は、徳島新聞に寄せられたエピソードを紹介します。

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 ここに1枚の写真があります。父20歳、母17歳。父背広姿、母着物姿。二人とも若くて美しい。父母が結婚した昭和10年の写真です。3年後、姉が生まれ、2年後、私が生まれました。

 父は戦争に連れて行かれ、28歳の若さで亡くなりました。私が3歳のときですから、父の記憶はまったくありません。生家は徳島市の船場で砂糖の卸問屋をしていました。家が焼失してからは母の実家、那賀郡今津村八幡へ疎開しました。

 父は既に亡く、母、姉、私、祖母、亡き父の姉一家の7人が離れに住みました。その後、1年生から3年生の2学期までは八幡神社の鳥居さんの近くで一軒家を借りて7人で住み、今津小学校へ1里ぐらいの距離を徒歩で通学しました。冬はしもやけでビリの方を歩いていました。

 数珠玉を集めてお手玉や枕の中身にするなどしました。枕に入れると「頭が冷えていい」と言われていました。夏には自転車でアイスキャンディーを売りに来る人がいて、それが楽しみでした。

 父は5歳と3歳の幼子を残し、死んでも死にきれなかったでしょう。姉を残し、私を連れて実家へ帰ってもよい。母はそう言われたらしいですが、子どものために嫁ぎ先にとどまり、二人の子どもを育て上げました。25歳の若さです。私も戦争で亡くなった父に会うことはかないません。「お父さん」と一度でいいから呼んでみたい。私の一生の願いでした。

 3年生の2学期、船場に家を建てて、疎開先から帰って来ました。今津小学校ではそろばんの授業などもなく、勉強の進み具合が違い、付いていくのがやっとでした。徳島中学校から城東高校へと進みました。当時、城東高校は定時制課程もあり、昼間に働いて登校してくる学生さんとすれ違うこともありました。少し優越感を持っていたこと、反省しきりです。

 中学校を卒業して就職していく方も多い中、城東高校へ進学させてくれた母には感謝しています。月謝も無料ではありません。

 母の弟である叔父が17歳で出征するとき、祖母の家の庭で家族写真を撮りました。私4歳、姉6歳。ビロードの服を着て、白い靴下もちゃんとはいています。「おいで」と祖母に言われて抱かれた記憶は鮮明に残っています。

 ただ、3歳のときの記憶はありません。父の思い出がひとつも残っていないのが悔しい。抱いてもらったのでしょうか。お父さんと呼んでみたい。写真で見るハンサムな父しか知らない。ヨボヨボになっている老人の父を見ていないから余計にそう思うのかもしれません。

(徳島市、井関日佐子さん、81歳)
*投稿者の年齢は2021年7月時点

「戦時下の暮らし 記憶のかけらを集めて」徳島新聞