三ノ宮駅北側にあった公園で、母と一緒に写る稚児衣装の橋口さん(右)(橋口さん提供)

橋口多美子さん(橋口さん提供)

三ノ宮駅北側にあった公園で、母と一緒に写る稚児衣装の橋口さん(右)(橋口さん提供) 橋口多美子さん(橋口さん提供)

 「#あちこちのすずさん」では、NHKや全国の地方紙、ネットメディアが連携して、戦時下の暮らしにまつわるエピソードを広い世代から集め、伝えていく取り組みをしています。今回は、神戸新聞に寄せられたエピソードを紹介します。

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 神戸・三宮の繁華街の一角に、小さなほこらがある。その昔、生田川の氾濫から地域を守ったという言い伝えが残る「北向地蔵」がまつられており、橋口多美子さん(84)=東京都府中市=は代々、この地蔵を守る家に生まれた。

 父親の藤原竹蔵さんは地域の顔役でもあり、ハイカラな人だったという。とりわけ世話役を務めていた地蔵盆には力を入れていた。戦争前にはブラスバンドの演奏会やのど自慢大会、時には市長も招待したという。夜空に並んだちょうちんの列を、今も橋口さんは覚えている。

 「戦前の神戸はとても開放的でした。外国人が街にいるのは普通だったし、みんな笑顔であいさつし合っていた」と振り返る。トアロードに行けば、おしゃれなシルクハットをかぶった欧米人が行き交い、モスクに向かうイスラム教徒の姿もよく見かけた。

 そんな自由な雰囲気が変わったのは橋口さんが小学校に入学したころから。開戦後、食材は配給制になり、誰もが空腹を抱えていた。朝食に使ったしょうゆ皿は、お湯を足してなめるのがいつの間にか家の習慣になっていた。

 空襲が激しくなると、神戸市長田区の親戚の家へ避難。その後、同級生たちと鳥取県青谷町(現在の鳥取市)に集団疎開した。

 「人が温かくて、のどかなところでした」。朝食は硬めのおかゆ、昼はかぼちゃのみそ汁。質素だったが、何より取れたての食材を使った食事はしっかりした味がした。

 ある日、橋口さんが体調を崩して近くの医院に行くと、医者の妻が奥の部屋に案内して、梨をむいてくれたことがあった。「あの梨の甘さは強烈に印象に残っている。はっきり今も思い出せるのは食事のことばかり。おかしいでしょう」と笑う。

 「空襲警報で逃げ回った記憶もあるけれど、恐怖や喜怒哀楽を感じた記憶がない。きっと感情のスイッチを切っていたんだと思う」。新型コロナ禍が収まれば、もう一度神戸のまちを見たい。結婚後に離れてから故郷への思いは年々強くなっている。

*投稿者の年齢は2020年9月時点

「#あちこちのすずさん」神戸新聞