太平洋戦争の終盤、620人以上が犠牲になった宇都宮空襲から12日で77年。下野新聞が戦争を語り継ぐキャンペーン「#あちこちのすずさん」と連携し、読者から募集した戦時中のエピソードの中から、宇都宮空襲にまつわる体験談を紹介する。

宇都宮空襲の記憶を振り返る糸井貞次さん

 宇都宮市、糸井貞次(いといていじ)さん(90)は、避難先で市街地に降り注ぐ焼夷(しょうい)弾を目撃した。

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 当時13歳の私は、住んでいた日野町(現馬場通り3丁目)から同市東戸祭1丁目の祥雲寺付近の小屋へ家族と避難していた。国内各地で空襲が増えていたので、用心してのことだった。

 空襲の日の夜、表が騒々しいので外に出た。すると市中心部の上空で、花火大会のように焼夷(しょうい)弾がサーサーと音をたてて、キラキラ細かく輝きながら落ちてくるのが見えた。

 色は赤より白に近い。今でも花火を見るとあの光景を思い出す。その夜は動くこともできず、ただ空襲がやむのを待った。

 翌日、自宅のあった辺りに戻ってぼうぜんとした。見渡す限りの焼け野原になっていて、焼け残った大谷石の蔵がちらほらと見えた。近くの旅館は大きな金庫を残して焼け落ちていた。

 終戦は、それから1カ月余り後のことだった。

 戦後間もないある日の昼。自宅近くの小高い場所で休憩していた時、焼け野原の向こうに煙をたなびかせて走る蒸気機関車を見た。

 その瞬間、何か力強く感じたものがあった。今思えば、列車の姿が宇都宮の復興の象徴のように見えたのだと思う。

【宇都宮空襲】1945年7月12日午後11時過ぎ、米軍のB29爆撃機115機が襲来し、市街地を中心に大量の焼夷(しょうい)弾を投下した。死者は620人以上、負傷者は1100人を超えた。