宇都宮空襲と同じ1945年7月12日の夜、鹿沼市で空襲に遭った鹿沼市、寺内光子(てらうちみつこ)さん(87)の投稿です。
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私は10歳、鹿沼市泉町に住んでいました。「今夜は眠ってはいけないよ。宇都宮の空が真っ赤だから」と母が言いました。
父は警防団に入っていて、空襲警報が鳴ると鉄かぶとをかぶって詰め所に行き、家にはいませんでした。
私と弟、妹は布団の上に座り、睡魔と戦っていました。非常食用に保存していた、いり大豆をお茶わん1杯ずつ母からもらい、ポリポリと食べていました。
すると天地がひっくり返ったようなごう音とともに、辺りが真っ昼間のように明るく照らされ、焼夷(しょうい)弾の直撃を受けました。コンニャク玉の塊のような物がメラメラと燃えているのを飛び越えて、4人で山の陰に逃げました。
翌朝、家に戻ると全て焼けていました。アルミの弁当箱も跡形もなくなってしまいましたが、瀬戸物の深皿は残っていました。母は弁当箱の代わりに、その皿にサツマイモや梅干しを詰めて学校に持たせました。
私は友達にそれを見られるのが恥ずかしかったのですが、ばかにされることはありませんでした。同級生はみんな仲良しで、ありがたかったです。