ウクライナでロシアの軍事侵攻による戦争が勃発した。爆撃で破壊された街並みや大切な家族を失った人々-。同じような光景は77年前、栃木県内でも起きていた。下野新聞は今年、戦争を語り継ぐキャンペーン「#あちこちのすずさん」と連携し、戦時下の暮らしにまつわるエピソードを募集している。戦争は私たちの穏やかな生活をどう変えてしまうのか。「日常」を切り口に、戦争と平和を身近な問題として考えたい。戦時下の思い出を文集「あの頃」にまとめ、後世に伝えようと活動している宇都宮女子高同窓生らの体験談を、募集に合わせて紹介する。

半田テルさん

 真空管ラジオから「東部軍管区情報」が流れてきて、B29爆撃機が宇都宮の上空を群馬県に向かって飛んでいきました。ごう音が怖くて、固まっていました。

 〈1945年4月、12歳で宇都宮第一高等女学校に入学したころ。米軍による空襲が頻度を増していた〉

 入学式の日は、銘仙の着物地で縫ったもんぺと上着を着て、防空頭巾と兄のお下がりのアルミの弁当箱を持ち、胸をときめかせて校門を入りました。

 昼食に弁当箱のふたを開けたら、満開の菜の花畑のような黄色が目に飛び込んできました。白米だけのご飯の上に、甘いいり卵が一面にのっていたのです。

 お祝いに作ってくれたんでしょうね。当時はコメも卵も砂糖も配給制でしたから、なかなか手に入らなかったはずなのに。母は大変だったと思います。

 〈ぜいたくは厳禁の時代。回覧板には「パーマネントはやめましょう」などと書かれていた〉

 くせ毛をパーマと間違われ、叱られたこともあります。着物の切れ端で友達とそろいのげたの鼻緒を作るのが、ささやかな楽しみでした。

 頂き物のピンクのオーガンディのワンピースがあったのですが、もったいなくて一度も着ることなく大事にしまっていました。

 〈この頃、空襲に備え、貴重品などを安全な場所に避難させる「荷物の疎開」が行われた〉

 医者だった父は、市内の明保野町にあった宇都宮刑務所に診察で出入りしていて、そこにワンピースも預けてくれました。ところが7月12日の宇都宮空襲で、刑務所は焼けてしまったのです。

 伝馬町の自宅は奇跡的に火災を免れました。家にあった7段のひな飾りも無事でした。来年の3月には私と同じ90歳になるひな人形を、また飾りたいです。

*次世代への伝言*
 不自由さを経験したからこそ、言えることがあります。私たちの経験が忘れられてしまわないよう、残してほしい。戦争の時代とは違い、今の若い人たちには教養も情報もある。でも不自由さを経験していないことが、逆に怖いということもあるかもしれません。