真空管ラジオから「東部軍管区情報」が流れてきて、B29爆撃機が宇都宮の上空を群馬県に向かって飛んでいきました。ごう音が怖くて、固まっていました。
〈1945年4月、12歳で宇都宮第一高等女学校に入学したころ。米軍による空襲が頻度を増していた〉
入学式の日は、銘仙の着物地で縫ったもんぺと上着を着て、防空頭巾と兄のお下がりのアルミの弁当箱を持ち、胸をときめかせて校門を入りました。
昼食に弁当箱のふたを開けたら、満開の菜の花畑のような黄色が目に飛び込んできました。白米だけのご飯の上に、甘いいり卵が一面にのっていたのです。
お祝いに作ってくれたんでしょうね。当時はコメも卵も砂糖も配給制でしたから、なかなか手に入らなかったはずなのに。母は大変だったと思います。
〈ぜいたくは厳禁の時代。回覧板には「パーマネントはやめましょう」などと書かれていた〉
くせ毛をパーマと間違われ、叱られたこともあります。着物の切れ端で友達とそろいのげたの鼻緒を作るのが、ささやかな楽しみでした。
頂き物のピンクのオーガンディのワンピースがあったのですが、もったいなくて一度も着ることなく大事にしまっていました。
〈この頃、空襲に備え、貴重品などを安全な場所に避難させる「荷物の疎開」が行われた〉
医者だった父は、市内の明保野町にあった宇都宮刑務所に診察で出入りしていて、そこにワンピースも預けてくれました。ところが7月12日の宇都宮空襲で、刑務所は焼けてしまったのです。
伝馬町の自宅は奇跡的に火災を免れました。家にあった7段のひな飾りも無事でした。来年の3月には私と同じ90歳になるひな人形を、また飾りたいです。