ウクライナでロシアの軍事侵攻による戦争が勃発した。爆撃で破壊された街並みや大切な家族を失った人々-。同じような光景は77年前、栃木県内でも起きていた。下野新聞は今年、戦争を語り継ぐキャンペーン「#あちこちのすずさん」と連携し、戦時下の暮らしにまつわるエピソードを募集している。戦争は私たちの穏やかな生活をどう変えてしまうのか。「日常」を切り口に、戦争と平和を身近な問題として考えたい。戦時下の思い出を文集「あの頃」にまとめ、後世に伝えようと活動している宇都宮女子高同窓生らの体験談を、募集に合わせて紹介する。

古谷シンさん

 戦争で一番思い出すのは、食べ物のことです。

 〈1933年、宇都宮市茂原町の農家に生まれた。雀宮国民学校(現雀宮中央小)に通っていた41年12月、太平洋戦争が勃発した〉

 食料不足の中、私は下校後ほぼ毎日、自宅近くを流れる田川の支流でアメリカザリガニやドジョウを「みそこしザル」で捕まえていました。ザリガニは、塩ゆでして皮をむくと特においしかった。魚屋のイワシやサンマには到底かなわないけれど、当時はとても貴重なタンパク源でした。

 ザリガニを捕って帰ると、親が「よくやった」と褒めてくれました。それがとてもうれしかったです。

 〈当時流行した赤痢で42年に5歳の弟、翌年に生後間もない妹が亡くなった〉

 戦中のことで葬式もできません。役場へ死亡届を出した後、両親が2人がかりで自宅近くの墓に小さな穴を掘り、埋めて家族みんなで線香を手向けました。周囲でも小さな子どもがたくさん亡くなりました。

 〈東京都内からコメを求めて訪ねてくる人もいた〉

 列車で雀宮駅までやってきて、そこから農村部まで片道4、5キロを歩いてきたのです。多い人で麻袋に詰めたコメ5升(約7.5kg)を背負って帰っていきました。あまりの重さに途中の道端でコメを落としてしまう人もいたようです。

 その人たちはコメと引き換えに、立派な和服や洋服をお金の代わりに置いていきました。だから、うちには振り袖や留め袖がたくさんあったんです。

 当時私は10代でしたが、それらを着ようとも見ようともしませんでした。戦争で着物どころではなく、興味が湧かなかったのです。

 大切なコメが着ることのない着物に換わったわけですが、不満はありませんでした。わざわざ東京から生きるために来たのだからと、子ども心に納得していたのだと思います。

*次世代への伝言*
 何よりも物や食べ物を粗末にしないこと。現代でも大雨や暴風といった災害、災難がいつ襲ってくるか分かりません。日々の備えが大切です。ウクライナで起こっている(戦争の)ことは、なぜ今頃こんなことが…と思います。戦争は絶対にやってはなりません。