ウクライナでロシアの軍事侵攻による戦争が勃発した。爆撃で破壊された街並みや大切な家族を失った人々-。同じような光景は77年前、栃木県内でも起きていた。下野新聞は今年、戦争を語り継ぐキャンペーン「#あちこちのすずさん」と連携し、戦時下の暮らしにまつわるエピソードを募集している。戦争は私たちの穏やかな生活をどう変えてしまうのか。「日常」を切り口に、戦争と平和を身近な問題として考えたい。戦時下の思い出を文集「あの頃」にまとめ、後世に伝えようと活動している宇都宮女子高同窓生らの体験談を、募集に合わせて紹介する。

花田静子さん

 父が枕元に置いてくれた古本たちは、疎開先での心の癒やしとなりました。

 〈7歳だった1945年3月10日、東京大空襲で浅草の自宅と父の経営するメッキ工場が被災。宇都宮市内の光琳(こうりん)寺近くに家族と疎開した〉

 疎開先となった母の実家は建具商で、敷地内に工場がありました。そこに親戚を含め4世帯、弟子も一緒に計20人が身を寄せました。

 当時熱が出やすく、よく寝込んでいた私の枕元に、父はたくさんの古本を置いていってくれました。イソップ物語、グリム童話、ギリシャ神話-。異世界の物語に引き込まれ、読書が大好きになりました。

 隣の小学校の子どもたちから「疎開っ子」とからかわれた時期もありました。私の早口の東京弁が、地元の栃木弁と違っていたのが気になったのでしょうか。学校の塀の上から石を投げられたこともありました。

 かわいそうに思った父がある日、私をリヤカーに乗せて校門前に連れて行きました。するといじめっ子たちは私をからかうと父が黙っていないと思ったようです。いじめはぱったりとなくなりました。

 〈終戦後、メッキ需要の増加を背景に48年、父の工場が再建した〉

 父は私に「自分は江戸っ子だから、静子は東京の女学校に行くんだぞ。先に行って待ってる」と言い残し、生活の拠点を一人都内に移しました。

 私はまた父と暮らしたい一心で勉強しましたが、50年12月、父は過労がたたり、心臓まひで急死しました。

 〈53年に宇都宮女子高に入学。現在は同校同窓会「操会」の会長を務める〉

 父との再会はかないませんでしたが、栃木県の学校で多くの友人に恵まれ、今があります。父の愛情は私にとって大切な原点です。

*次世代への伝言*
 物も食糧もなく大変な時代でしたが、生きる力や夢を持った多くの友人たちの存在はいつも自分を支えてくれました。いつの世でも友人は宝物です。若い人たちはぜひ、一生付き合える友人をいろんな場所でつくってください。