父が枕元に置いてくれた古本たちは、疎開先での心の癒やしとなりました。
〈7歳だった1945年3月10日、東京大空襲で浅草の自宅と父の経営するメッキ工場が被災。宇都宮市内の光琳(こうりん)寺近くに家族と疎開した〉
疎開先となった母の実家は建具商で、敷地内に工場がありました。そこに親戚を含め4世帯、弟子も一緒に計20人が身を寄せました。
当時熱が出やすく、よく寝込んでいた私の枕元に、父はたくさんの古本を置いていってくれました。イソップ物語、グリム童話、ギリシャ神話-。異世界の物語に引き込まれ、読書が大好きになりました。
隣の小学校の子どもたちから「疎開っ子」とからかわれた時期もありました。私の早口の東京弁が、地元の栃木弁と違っていたのが気になったのでしょうか。学校の塀の上から石を投げられたこともありました。
かわいそうに思った父がある日、私をリヤカーに乗せて校門前に連れて行きました。するといじめっ子たちは私をからかうと父が黙っていないと思ったようです。いじめはぱったりとなくなりました。
〈終戦後、メッキ需要の増加を背景に48年、父の工場が再建した〉
父は私に「自分は江戸っ子だから、静子は東京の女学校に行くんだぞ。先に行って待ってる」と言い残し、生活の拠点を一人都内に移しました。
私はまた父と暮らしたい一心で勉強しましたが、50年12月、父は過労がたたり、心臓まひで急死しました。
〈53年に宇都宮女子高に入学。現在は同校同窓会「操会」の会長を務める〉
父との再会はかないませんでしたが、栃木県の学校で多くの友人に恵まれ、今があります。父の愛情は私にとって大切な原点です。