軍国主義的な戦時教育を受けて小学校生活を送った高根沢町、関口絢子(せきぐちあやこ)さん(87)の投稿です。
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1941年夏、私は黒羽町(現大田原市)川西国民学校の1年生でした。子ども心に不思議に感じたことがあります。街角のアイスキャンディー屋さんや、いつもふかふかと湯気を立てて食欲をそそっていたおまんじゅう屋さんが続けてなくなってしまったのです。
教科書は「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」などのカタカナで始まりました。宿題で何度も日の丸の旗を描いたり作ったり。「白地に赤く日の丸染めて ああ美しや日本の旗は」「今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです」といった軍歌も多く記憶しています。その年の12月、太平洋戦争が始まりました。
高根沢町に疎開した5年生の頃、「警戒警報」や「空襲警報」が発令され、落ち着いた学校生活などできなくなりました。
7月のある日、自宅でけがをした2歳の妹をリヤカーに乗せて母と3人で病院に向かっていた時、機銃掃射の標的になりかけました。敵機が低空飛行で近づいてきて、操縦士の姿がはっきり見えたのです。「やられるか?!」と思い怖かった!
戦争への足音はいつの間にか、ひたひたとやってきます。気付いた時には既に遅いのです。