
今に伝わる太平洋戦争の報道の多くが1945(昭和20)年8月15日の終戦までで、その直後のことはあまり知られていない。下野新聞社には終戦から11月までの紙面制作の記録が残っていないが、発行を委託していた毎日新聞で“復興”への歩みが確認できる。
政府の防空総本部は8月23日、全国の空襲被害の調査結果を発表した。「無差別空襲により市街の大半以上を焼失した都市は44都市」とし青森、水戸、日立に続いて宇都宮も挙がった。
宇都宮市では同日から3日間、戦災者向けのみそや食用油、紺木綿などが配給された。焦土には「焼トタンに丸太の仮小屋」が建ち「力強い復興の息吹」を見せたが、「一時しのぎ的建設が多く衛生上からも、また冬に向かうのにも耐えがたい」建物もあった。市は都市計画に基づく住宅整備を早急に進めようと、市内の有力者に協力を呼びかけ「貸家組合」を組織した。
足利市では軍需工場の清算が進んだ。織物産業が盛んな頃からの工場主の中には、那須や北海道の開拓民になる人もいた。「荒土開拓を一家再建の更生道場として、たくましく新発足の希望に燃え立っている」と報じた。