1932(昭和7)年5月16日付下野新聞
1932(昭和7)年5月16日付下野新聞

 1932(昭和7)年5月15日、当時の犬養毅(いぬかいつよし)首相が暗殺された。五・一五事件だ。

 軍部中心の内閣をつくろうと、海軍の青年将校が中心となって首相官邸や内大臣官邸、政友会本部などを次々と襲撃し、犬養を射殺した。この事件を機に、軍部が政治への発言を強めていくことになる。

 本紙は16日付の夕刊で犬養の死を伝えるとともに、高橋是清(たかはしこれきよ)蔵相が臨時首相代理に就いたことを報じた。10日後の26日付夕刊には、新たに就任した斎藤実(さいとうまこと)首相と、内閣の顔ぶれを大きく紹介した。

 首相となった海軍出身の斎藤は、対立政党も加えて構成する「挙国一致内閣」を組織。犬養の内閣を最後に、戦前の政党政治は終わりを迎えた。

 県内ではこの年の1月に塩谷郡阿久津村(現高根沢町)で、小作料減額を巡り全国農民組合栃木県連と、減額を拒否する地主を応援する大日本生産党が衝突し、5人が死亡する事件が発生した。8月には、日光市の馬返から明智平までを結ぶ日光登山鉄道のケーブルカーが開通し、70(昭和45)年まで多くの人に親しまれた。