1945(昭和20)年7月14日付下野新聞
1945(昭和20)年7月14日付下野新聞

 1945(昭和20)年7月12日深夜から翌13日未明にかけ、県都を襲った宇都宮空襲。米軍のB29爆撃機115機が襲来し、中央国民学校(現・宇都宮市中央小)を中心に、約2時間にわたって焼夷(しょうい)弾を投下した。死者は620人以上、負傷者は1128人以上に及んだ。

 下野新聞社の本社も被害を受けた。社屋は外郭だけを残して焼け落ち、印刷発行の機能は失った。

 それでも13日には、毎日新聞社の協力で「新聞特報」を発行し、県民に届けた。「B29約140機来襲」「宇都宮へ70機」「鹿沼町、真岡町にも火災」などと伝えた。

 14日付本紙では「濃密爆撃に勝つ宇都宮市」「団体活動に威力」と、厳しい戦禍とはかけ離れた見出しが並んだ。軍部の情報統制下の影響がうかがえる。

 宇都宮市役所の北方、いちょう通りに面して立つ「旭町の大いちょう」も真っ黒に焼けた。しかし終戦の翌年、新芽を吹き見事に再生した。以後、復興のシンボルとして市民に親しまれた。戦後79年が過ぎた今も雄々しくそびえ立ち、秋には鮮やかな黄色い葉を付ける。