戦禍をくぐり抜け、「今が一番幸せ」と語る太田康子さん。仏壇には広島で被爆した夫守福さん(享年91)の遺影が立てられていた=2024年12月8日、沖縄市宮里の自宅(竹花徹朗撮影)

伊豆味尋常高等小学校時代の太田康子さん(前列中央)。正月は学校で紅白まんじゅうが配られる新年行事があった=1937~38年ごろ、現在の沖縄県本部町(提供)

戦禍をくぐり抜け、「今が一番幸せ」と語る太田康子さん。仏壇には広島で被爆した夫守福さん(享年91)の遺影が立てられていた=2024年12月8日、沖縄市宮里の自宅(竹花徹朗撮影) 伊豆味尋常高等小学校時代の太田康子さん(前列中央)。正月は学校で紅白まんじゅうが配られる新年行事があった=1937~38年ごろ、現在の沖縄県本部町(提供)

 1945年元日の朝、太田康子(おおたやすこ)さん(98)は沖縄島北部の沖合に浮かぶ伊江島で、不気味に旋回する米軍機を見上げた。「空襲が来る」。これまでの“経験則”が、偵察の次は空襲だと教えていた。とっさにアダンの木陰に身を隠した。

 当時、伊江島では日本軍が「東洋一の飛行場」を建設していた。19歳だった太田さんは、前年の12月22日から徴用で駆り出された。