2005年に下野新聞紙面で連載した「戦後60年 とちぎ産業史」。第2次世界大戦後、栃木県内の産業や企業はどんな盛衰のドラマを繰り広げたのか-。今年は戦後80年。関係者の証言などを収めた20年前の記事を通して、あらためて戦後の歩みを振り返ります(9月7日まで毎日配信予定)。記事一覧はこちら

【戦後60年 とちぎ産業史】自動車(中)

 中島飛行機宇都宮製作所に学徒動員されていた少年は、雑木林を開墾し、食料を増産すればいいと思った。だが十数年後、雑木林を工場に一変させる仕事に巡り合う。
 「県は長期計画で、農業県から工業県に変え始めた」
 元県職員で、工場誘致を一九六三年から十一年間担当した石塚良徳氏(76)=高根沢町宝積寺=は記憶をたどる。
 同年四月、県は組織を改編して工業開発課を創設。三十三歳の石塚氏は誘致係に配属された。
 県内では、豊富な労働力に目を付けたブリヂストンが黒磯市(現那須塩原市)に出るなど、数年前から大企業進出の動きが出ていた。
 石塚氏は「企業先行で進出されると工場の適正配置ができない。適地に企業を誘導するため、県は体制を整えた」と、当時の事情を説明する。
 誘致係は三人。運転手付きの専用のライトバン一台が用意された。
 石塚氏は、異動間もない五月、専用車で二人の男性を案内した。広大な平地林を見せると、初めて関心を示した。
 「この辺、広いですね。なんとかなりませんか」
 二人は、日産自動車の担当者だった。