日立市郷土博物館の戦災関連展示の前で、艦砲射撃の砲弾の破片を手に当時を語る沼田清治さん=6月2日、同市宮田町(吉田雅宏撮影)

艦砲射撃で破壊された日立製作所多賀工場航空重機工場=1945年7月(日立市郷土博物館提供)

日立市郷土博物館の戦災関連展示の前で、艦砲射撃の砲弾の破片を手に当時を語る沼田清治さん=6月2日、同市宮田町(吉田雅宏撮影) 艦砲射撃で破壊された日立製作所多賀工場航空重機工場=1945年7月(日立市郷土博物館提供)

 深い霧の向こう側で、戦艦の砲口が一斉に火を噴いた。1945年7月17日深夜。茨城県日立市は、太平洋岸に立ち並ぶ軍需工場を狙った米軍の艦砲射撃に襲われた。

 わずか20数分の間に、市内に撃ち込まれた40センチ砲弾は約870発。標的は戦艦から2~3キロ先の各工場だったが、外れた弾は周辺に住む一般市民の上にも容赦なく降り注いだ。

 沼田清治(ぬまたせいじ)さん(90)=同県東海村=は、100人以上が亡くなり最も被害の大きかった旧多賀町(同市)の自宅にいた。

 「起きろ、逃げるぞ」。当時10歳。鬼気迫る様子の父親にたたき起こされ、戦闘帽やゲートルは枕元に置いたまま、庭先の防空壕(ごう)に飛び込んだ。家族と親戚の8人で身を寄せ合って息を潜めた。「ズドーン」と大地を揺らすほどの衝撃が続く。「すさまじい音が何度も体を突き抜けた」。暗闇の中で恐怖に震え、思わず失禁したという。