「爆弾の落下位置が少しずれていたら、私たち家族の命はなかったと思う」と空襲の怖ろしさを語る牛島啓爾さん=佐賀県鳥栖市

鳥栖空襲の500ポンド爆弾でできた大穴には水がたまって「ばくだん池」と呼ばれ、昭和30年代まであった=鳥栖市藤木町(1956年ごろ撮影、篠原眞さん提供)

鳥栖市街地一帯が空襲を受けた時の写真=米マクスウェル空軍基地歴史資料室所蔵(工藤洋三氏提供)

「爆弾の落下位置が少しずれていたら、私たち家族の命はなかったと思う」と空襲の怖ろしさを語る牛島啓爾さん=佐賀県鳥栖市 鳥栖空襲の500ポンド爆弾でできた大穴には水がたまって「ばくだん池」と呼ばれ、昭和30年代まであった=鳥栖市藤木町(1956年ごろ撮影、篠原眞さん提供) 鳥栖市街地一帯が空襲を受けた時の写真=米マクスウェル空軍基地歴史資料室所蔵(工藤洋三氏提供)

 空襲警報が鳴り始めてすぐだった。爆弾が民家や田畑に降り注ぎ、さく裂音が雷鳴のようにとどろいた。鉄道施設がある九州の交通の要衝、佐賀県鳥栖市。1945年8月11日午前10時半ごろ、米軍の爆撃機80機が襲い、119人が犠牲になった。

 当時8歳だった牛島啓爾(うしじまけいじ)さん(88)=鳥栖市=は、国民学校が休みで養父地区の自宅にいた。午前10時ごろ、赤ん坊の弟が泣きやまず、おんぶして、田んぼで草取りをしている母の元へ向かった。

 朝から日差しが強く、汗がしたたり落ちた。田んぼにたどり着くと、空襲警報が鳴った。「危ない」。母が急いで田んぼから上がってきた。柿の根元にある幅1メートルほどの溝に入る。母が弟に覆いかぶさり、自身も傍らにうずくまった。