
どれだけ歩いても遺構は見つけられなかった。県内各地の戦争の痕跡を紹介する企画「遺構は語る」。昨年12月、かつて西那須野駅南東(現・那須塩原市南町)に落とされた1発の爆弾について取材するため、駅前に広がる住宅街に足を運んだ。
目当ては投下直後に掘られたとされる防空壕(ごう)と爆弾の破片。那須地域の空襲を記録した約20年前の書籍と住宅地図を手に、周辺一帯の家を訪ねたが「アパートが建っている場所に防空壕があったはずだが詳しくは分からない」「(爆弾の破片は)父親の日記と一緒に保管していると思ったが見つからなかった」と、有力な手がかりをつかむことはできなかった。
惨禍を知る世代の多くが鬼籍に入っている上に、地域の戦争を伝える“モノ”すら残っていない。そんな現状を目の当たりにして、80年という時の長さを恨めしく思った。
「主人なら詳しく知っているかもしれない」。光明が差したのは手当たり次第に一軒一軒訪問していた時だ。「若い世代のためなら」と元教員の女性が快く応じてくれた。
この出会いがきっかけで、爆弾投下の瞬間を目撃していた90代の男性に話を聞くことができた。「遠くで黒煙が上がってね。何か恐ろしい感じしかしなかった」。家族でさえ知らなかった貴重な体験談だった。
結局、遺構を確認することはできなかった。ただ歴史に埋もれかけていた空襲の事実をリアルに伝えられたと自負している。
十数年後には確実に生の証言は聞けなくなる。遺構も適切に保存されなければ失われるだろう。ただ終戦から何年たとうとも、自分の足で現地を歩き、つぶさに見つめて伝え続ける。それが記者の使命と心に刻んでいる。
(大田原総局 草場和樹)
太平洋戦争の終結から80年の節目を迎えた今年、下野新聞社はさまざまな平和報道を展開している。戦争体験者がわずかとなり、記憶を伝えることが年々難しくなる中、平和への願いを未来へどう継承していくか。15日に始まる新聞週間に合わせ、取材を担当した記者が抱いた思いを紹介する。