1位 「雛は黙して」 石㟢敬子さん(宇都宮)
天気予報では今日は一日曇りだという。鈴香は普段通り六時に起きて朝食の用意を始める。六時半に夫の正雄と娘の穂香に声をかける。正雄はすぐ起きてくるが、穂香は三度呼ばないと起きてこない。これも普段通り。
いただきますとぼそぼそ言いながら三人で朝食を食べる。テレビでは人気の高い女子アナが滑舌よくニュースを伝える。詐欺の被害にあった七十代の女性、被害額は千二百万円。どうして騙(だま)されるのかな。騙す方が賢いから? と口にしても二人から返事はこない。これも普段通りで心は揺れない。
急いで化粧をし、会社の事務服に着替える。正雄、穂香がそれぞれ仕事に出ていった。穂香の「いってきます」とドアの閉まる音を聞いて、鈴香は大きく息を吐いた。人を騙すのはこんなに疲れるのだと実感する。鈴香は今着たばかりの事務服から部屋着に着替えて、納戸に向かった。
穂香が三歳の時、前の夫、俊一と離婚した。そして穂香が小学校に上がるタイミングで正雄と再婚した。正雄は実直を絵に描いたような男で、給料はそのまま鈴香に渡してくれるし、口数は少ないが、穂香を可愛(かわい)がってくれた。
先月穂香の結婚が決まった。新居はどの辺にしようか、荷物は少ないほうがいいとか思いつくまま話をしていると、穂香が、
「私のお雛様(ひなさま)は捨てちゃうの?」
と聞いてきた。
「捨てはしないよ。ずっと納戸にしまいっ放しだったねえ。風も当ててあげなかったわ」
「雛人形連れていこうかな」
「荷物が増えちゃうでしょう。女の子が生まれたら、そのときでいいんじゃない」
穂香の口から雛人形と聞くまで、納戸にしまってあることも忘れていた。雛人形は母方の家が用意すると言われているが、俊一の母がうちで用意させてほしいと鈴香の両親に頼んできた。穂香が生まれたのを義母は本当に喜んでいた。しかし実際に飾ったのは最初の二回だけだった。三年目はそれどころではなく、四年目は見るのが辛(つら)かった。再婚してからは目につかないように納戸の隅にしまい込んだ。
昨日の昼休み、鈴香は職場の机で弁当を食べていた。穂香は雛人形をいつから気にしていたのだろうかと考えていると、ずっと眠っていた記憶が蘇(よみがえ)ってきた。今食べたものが、つきあがってくる感じ。動悸(どうき)が激しくなる。どうして今まで忘れていたのか自分をなじった。雛人形の箱の中には俊一と家族だった頃の写真が、処分できないまま、挟み込んだままだった。
昼休みが終わると、課長に明日の有給休暇を願い出た。「随分急だな」と嫌味と取れなくもない言い方だったが、有給休暇は受理された。
納戸の前に立つと、まず手前に積まれているものから廊下へ運び出す。雛人形は一番上の棚にあった。三段飾りの大きなセットだったので、いくつかの箱に分けてしまってあった。踏み台に乗って大きな箱を一つずつ降ろす。ズシリと重かった。一つ目の箱には内裏雛が入っていた。綺麗(きれい)な顔がかびていなくて良かった。
「飾ってあげなくてごめんなさい」
おもわず人形に頭を下げる。最後に雛段の大きな箱を開ける。雛段の間に目的のものをみつけた。それは十九歳で結婚した、まだ子供にしか見えない鈴香と俊一の写真の束だった。結婚式の二次会の写真、お金のない二人に馴染(なじ)みの喫茶店が場所を提供してくれたんだっけ。中には穂香や正雄には見せられない、若さゆえ撮れた、今となってはただただ恥ずかしいものもあった。
箱を元通りにして、納戸をもう一度見渡す。今日納戸を片付けたことを知られてはいけない。知って怒る正雄ではないが、子連れの自分と再婚してくれた六歳年上の夫にどこか遠慮があるのは否めなかった。
鈴香はキッチンに戻り鋏(はさみ)を取り出すと、写真を細かく刻み始めた。最後に一枚残ったのは結婚式の二次会の写真だった。俊一との待ち合わせにいつもこの喫茶店を使っていた。コーヒー一杯でずっと居座っていると、他にお客がいない時はよくナポリタンを作ってくれた。
「結婚するときは俺も呼べよ」
マスターはそう言って新聞を広げる。二人の話を聞いているのか、聞いていないのか。まあ聞いていたのだろう。しかしそこは大人、知らないふりを決めていた。
(マスターどうしているかな)
離婚して二十年、もう二十年もマスターに会っていないのか。まだ店はあるのだろうか。今日はこのあと予定はない。家にいると、余計な片付けをやりかねない。私は仕事にいっていることになっているのだから、定時に戻ってくればいい。鈴香は刻んだ写真を白いポリ袋に入れてごみ袋に捨てて、一枚だけバッグに忍ばせ、家を出た。
電車を乗り継いで三十分、更に歩いて五分、商店街の入り口に喫茶店「わかば」はあった。周りの店舗はすっかり様変わりしたが、「わかば」は当時のままだった。白と緑を基調に飾らない店構えはレトロ感さえ漂ってくる。
深く息を吐く。今日何度目のため息だろう。一人で大騒ぎしているのが、おかしくなった。よしと扉を開ける。
「いらっしゃいませ……あれ鈴香ちゃん?」
「ご無沙汰してます。全然顔出さなくてごめんなさい」
「いいんだよ。ほら、こっちにおいで」
とカウンターに呼ばれた。椅子に座って店の中を見回した。二十年前と変わらない。一番奥の二人掛けの席に目がいく。俊一と待ち合わせはいつもあの席だった。
「よく来てくれました。来てくれて嬉(うれ)しいよ」
マスターは白髪が交じり、肉付きが少々良くなったが、雰囲気は昔のままだ。
「あのね。昔の写真がでてきて。そうしたらマスターどうしてるかなあって……ハハなんか涙出てきちゃった」
「泣くな。俺ももらい泣きしそうだ。なんか食べるか」
「うん。ナポリタンがいい」
朝から張りつめていたものがサーッと体から抜けていく。
「はいナポリタン、うまいぞ」
「知ってる……いただきます」
甘酸っぱいトマトソースは紛れもなくマスターの味だ。
「幸せにやってるか」
マスターに聞かれて一瞬考える。私が再婚していることは知っているのだろうか。俊一は陽気で人の懐にすっと入っていける男だった。マスターも彼を可愛がっていた。結婚して二年目に俊一の会社が倒産した。次の仕事も長くは続かず、俊一は表情を失っていった。そして逃げるように離婚届を置いて出ていったのだ。
「幸せって言わないとバチが当たる……かな」
「そうか。なら、よかった」
そのとき、店の裏口で「ただいま」という男の声がした。
「ちょっと待ってて」
マスターは奥に姿を消す。鈴香はもう一度店の奥の席を振り返った。若い俊一の背中が浮かぶ。私は右手で頬杖をつき、伸ばした左手の上に俊一の右手が重なっている。見つめあって先に目を逸(そ)らした方が敗(ま)け、いつも私が敗けていた。
「おまたせ。最近注文を受けて出前もしてるんだ。この商店街だけな。それでバイト使ってるんだよ」
ナポリタンに目を落として鈴香は聞いていた。
「穂香ちゃん、いくつになった?」
「二十三になる」
「そんなになるか。じゃあ俺が還暦迎えてもしかたないな」
「穂香、もうすぐ結婚するの」
「相手はどんな奴?」
「同じ会社の人。二歳年上で意外としっかりしてそう。技術系の人だから転勤はないかも」
「俺よりいい男か?」
「マスターに比べたらまだまだひよっこだよ。昔の俊一みたいにね。でも経済力はあるかな」
マスターは一本取られたと言って顎を撫(な)でた。
「今度穂香ちゃんと相手の男も連れて来いよ。俺が品定めしてやる」
鈴香は何度も頷(うなず)いた。これ以上こらえているのが難しい。そろそろ混みだす時間なので「わかば」を後にした。
「わかば」で聞いた「ただいま」の声には聞き覚えがあった。何年も毎日聞いていたのだから忘れるはずがない。我慢していた涙が頬を伝う。
捨てられなかった最後の一枚は雛人形の箱に戻そうと鈴香は空を仰いだ。

ポストする



