あの日から、生活が一変した。1945年8月15日、終戦。満州(現中国東北部)のハルビンで暮らしていた小山市萱橋、山崎栄子(やまざきえいこ)さん(88)は苦々しく思い起こす。「地獄のような日々の始まりだった」
東京都江東区の出身。国民学校に通っていた43年、母と弟と3人で満州に渡った。ハルビンで工場を営む父の元に疎開を兼ねて身を寄せた。当時8歳だった。
戦時下のハルビンでの生活は満ち足りていた。ソ連(現ロシア)や中国の子どもと友だちになった。春は花畑を見に行き、冬は凍った川でスケートをした。一緒に踊ったタップダンスは今でも体が覚えている。
工場経営も順調。父は現地で雇った従業員から鈴木姓にちなみ「すーさん」と呼ばれ、慕われた。
しかし、敗戦とともに、そんな生活は終わった。暴徒化した一部の住民や、同9日に満州に侵攻したソ連側の日本人襲撃が始まった。父は捕まり、収容所に送られた。
自宅も襲われた。工場の従業員が山崎さんらを屋根裏にかくまい、九死に一生を得たが、家財は全て奪われた。数カ月後。収容所から脱走した父と再会できた時は涙を流して喜んだ。
46年に日本へ引き揚げる団体に加わった。道のりの記憶はおぼろげだ。ただ、リュックを背負い、数百人で何日も何日も歩き続けたことは覚えている。病にかかり倒れる人もいた。
ようやく乗った貨物列車も危険だった。壁のない板だけの車両では揺れるたびに人が振り落とされ、悲鳴が聞こえた。止まれば賊(ぞく)に襲われ、女性は暴行された。隠し持っていた母の手作り人形も踏みつぶされた。
博多に着いたのは同年9月。東京に戻ると、自宅は焼けてなくなっていた。
「引き揚げの道中で大勢の人が亡くなるのを見た。家族全員が無事に帰ってこられたのは運が良かったとしか言えない」
結婚を機に小山市で暮らす。ハルビンに住んでいたころの持ち物は全て失った。当時の友達や従業員の消息は分からないまま。
悲惨だった「あのとき」は脳裏に焼き付いている。「全ての人が人間を尊重しなければならない。戦争は人から人らしさを奪う。絶対にやってはいけない…」。静かに訴え続ける。
(終わり)