本県遺族を代表して献花する田名網さん(手前から4人目)=15日午後0時半ごろ、東京・日本武道館

全国戦没者追悼式に参列した本県遺族=15日午後0時40分、東京・日本武道館

本県遺族を代表して献花した田名網さん=15日午前10時35分、東京・日本武道館

本県遺族を代表して献花する田名網さん(手前から4人目)=15日午後0時半ごろ、東京・日本武道館 全国戦没者追悼式に参列した本県遺族=15日午後0時40分、東京・日本武道館 本県遺族を代表して献花した田名網さん=15日午前10時35分、東京・日本武道館

 東京・日本武道館で15日行われた全国戦没者追悼式には、本県から遺族46人が参列した。78回目を迎えた終戦記念日。故人を悼み、不戦の誓いを新たにした参列者からは、ロシアによるウクライナ侵攻など国際情勢を憂える声や、遺族の高齢化などに伴う戦争への関心の薄れを危惧する声が聞かれた。

 県によると、本県参列者の平均年齢は74・2歳。戦没者の子が11人、きょうだい3人、孫4人、おい・めいなどが28人だった。

 「おやじ、来たぞ」。本県を代表して献花に立った足利市駒場町、田名網省史(たなあみせいし)さん(84)は、フィリピンのレイテ島で玉砕した父萬三郎(まんざぶろう)さん(享年34)をしのび、花を手向けた。

 父の記憶はほとんどない。だが、母の故マキさんが神社を巡って無事を祈っていたことや、終戦直前の1945年7月、戦死を知らせる手紙を手に涙を流していた姿を覚えている。

 ウクライナの戦禍に触れるたび、「生きることに無我夢中」だった自身の体験が重なり、「戦争とはこういうものだ。やってはいけない」との思いを強くする。一方、市遺族会副会長として社会の関心の薄れを肌で感じ「腹が立つが、時代と共に仕方ないことなのかもしれない」とも漏らす。

 本県参列者の最高齢で栃木市千塚町、高久八郎(たかくはちろう)さん(86)は、兄二郎(じろう)さん(享年23)やおじ2人を亡くした。兄は教師に憧れ、大学にも合格したが、「兵隊になって国のために尽くせ」との祖父の言葉を受け、旧制中学卒業後、兵役に就いた。最期はニューギニア、パラオ間の海上で射撃を受け、船と共に海に沈んだ。進学した同期は徴兵の時期が遅れたことで存命し、祖父は自責の念に駆られたという。

 海外で戦死したおじたちと同様、遺骨はない。3人を合同で弔い、それぞれの最期を墓石に刻んだ。式を終え、高久さんは「戦争の歴史を後世に伝える必要があると再認識した」。

 最年少参列者は鹿沼市口粟野、会社員小島幸(こじまみゆき)さん(32)。祖父の兄たちを戦病死で亡くした。遺族が集う会場を見渡して「戦争に関心を寄せるのは高齢の方ばかりになってしまっている」と痛感した。「若い世代がどのように戦争を知ることができるかが、これからの課題だと思う」

 ウクライナの戦禍に触れるたび、「生きることに無我夢中」だった自身の体験が重なり、「戦争とはこういうものだ。やってはいけない」との思いを強くする。一方、市遺族会副会長として社会の関心の薄れを肌で感じ「腹が立つが、時代と共に仕方ないことなのかもしれない」とも漏らす。

 本県参列者の最高齢で栃木市千塚町、高久八郎(たかくはちろう)さん(86)は、兄二郎(じろう)さん=享年23=やおじ2人を亡くした。兄は教師に憧れ、大学にも合格したが、「兵隊になって国のために尽くせ」との祖父の言葉を受け、旧制中学卒業後、兵役に就いた。最期はニューギニア、パラオ間の海上で射撃を受け、船と共に海に沈んだ。進学した同期は徴兵時期が遅れて生き延び、祖父は自責の念に駆られたという。

 海外で戦死したおじたちと同様、遺骨はない。3人を合同で弔い、それぞれの最期を墓石に刻んだ。式を終え、高久さんは「戦争の歴史を後世に伝える必要があると再認識した」。

 最年少参列者は鹿沼市口粟野、会社員小島幸(こじまみゆき)さん(32)。祖父の兄たちを戦病死で亡くした。遺族が集う会場を見渡して「戦争に関心を寄せるのは高齢の方ばかりになってしまっている」と痛感した。「若い世代がどのように戦争を知ることができるかが、これからの課題だと思う」