1945年7月12日の宇都宮空襲から79年を迎える。街なかが焼け、県内の空襲で最多の620人以上が犠牲になった。「戦争はみじめ。戦争だけはしてはいけない」-。体験者が少なくなる中、当時を知る宝木町2丁目、寺田吉広(てらだよしひろ)さん(97)にその様子や思いを聞いた。

 寺田さんは同年6月ごろ、東京から疎開し、宇都宮空襲時は東国民学校(現・東小)の近くに住んでいた。18歳だった。「その時は逃げるのに必死で細かいことは分からないんですよ。ただ、確かに今日みたいに雨は降っていました…」。寺田さんは話し始めた。

燃える県都、必死で逃げた

 あの夜は空襲警報が鳴ったと同時に爆撃音が聞こえてきたんです。2階から国鉄(現・JR)宇都宮駅の方を見ると真っ赤だった。

 義兄が「先に行け」と言うので、防空頭巾をかぶって姉と姉の子ども、妹を連れて北に逃げました。行く先で焼夷(しょうい)弾がバンバン落ちる。道沿いの家に直撃して羽目板が飛んできて、体に当たって飛ばされました。羽目板がなかったら、焼夷弾の油をかぶって生きてなかった。

宇都宮空襲で焼け野原になった市街地。二荒山神社の高台から大通り方面を捉えた(中島みどりさん撮影)
宇都宮空襲で焼け野原になった市街地。二荒山神社の高台から大通り方面を捉えた(中島みどりさん撮影)

 今の宇都宮商業高の辺りの田んぼの土手に隠れて、街の方が燃えるのを見ていました。全部焼けてしまって。下火になったので戻ると家も全焼でした。家族は無事だったけれど、田川の橋の上では、小さい女の子2人が抱き合って亡くなっていました。煙にやられたと思う。親は「先に行け」と言って逃がしたんじゃないかな。かわいそうだった。今でも目に焼き付いています。

 東国民学校の校庭には遺体が所狭しと並べられていました。真っ黒で男も女も分からない。ちょっと見ただけで、もう無残で見られない。あれはむごたらしい。悲惨というしかない。

「戦争の話をする人が周りにいなくなってしまい、忘れてしまう」と書き記してきた記録を手にする寺田さん
「戦争の話をする人が周りにいなくなってしまい、忘れてしまう」と書き記してきた記録を手にする寺田さん

 「東京で毎日のように空襲があり、避難した防空壕(ごう)が崩れた」「疎開の際、大八車に荷物を積んで宇都宮と東京を歩いて往復し、機銃掃射に遭った」「食糧難で開墾した」…。寺田さんは宇都宮空襲以外にも次々と振り返ってくれた。

 そして、一呼吸おいてこう続けた。「戦争はみじめ。みじめですよ。戦争は勝っても負けても犠牲者が出る。戦争だけはしてはいけない。平和が本当にありがたい」。その目が潤んでいるようにも見えた。

 

 宇都宮空襲は1945年7月12日午後11時19分に始まった。米軍のB29爆撃機115機が飛来。約2時間20分にわたり、焼夷弾1万2704個を投下した。旧市街地の大半が焼け、中心部の国民学校(小学校)や寺には遺体が並んだ。

あすから「うつのみやの戦災展」

 宇都宮空襲から79年となり戦争の恐ろしさや平和の尊さを考えてもらおうと、市は8日~8月31日、宇都宮城址(じょうし)公園清明館歴史展示室で「うつのみやの戦災展」を開く。宇都宮の戦災に関する資料が展示される。入場無料。