土崎空襲の記憶を語る渡辺雪子さん。何度も「戦争はいけない」と繰り返した=7月26日、秋田市、三浦正基撮影

空襲で犠牲になった男児が着ていた学童服。爆弾の破片が体を貫通していたことが分かる=秋田市土崎みなと歴史伝承館、三浦正基撮影

土崎空襲の記憶を語る渡辺雪子さん。何度も「戦争はいけない」と繰り返した=7月26日、秋田市、三浦正基撮影 空襲で犠牲になった男児が着ていた学童服。爆弾の破片が体を貫通していたことが分かる=秋田市土崎みなと歴史伝承館、三浦正基撮影

 大好きな学校が、一夜にして地獄と化した。校庭には、多くのけが人がいた。頭を負傷していた男性は傷口からの出血が止まらない。高等女学校の3年生だった渡辺雪子(わたなべゆきこ)さん(94)=秋田市=は、1人しかいない医師の手元をろうそくで照らすことしかできなかった。男性は息を引き取り、付き添っていた妻子は大声で泣いた。1945年8月15日、終戦のほんの少し前の出来事だった。

 港町として栄えた秋田市土崎地区には当時、大規模な石油基地「日本石油秋田製油所」があった。この町で生まれた渡辺さん。日本舞踊を習っていたが、振り袖はぜいたくとされ着られなくなった。

 鉄道技師の父は44年に出征。「若い男の人はいなくなっていた」。郷土部隊の食料として、学校のグラウンドや花壇をつぶしてイモや野菜を作った。

 45年8月14日は、静かな日だった。住民が寝静まった夜の町にサイレンが響いたのと、B29の編隊が飛来したのはほとんど同時。「空襲だ」。母ときょうだいの4人で防空壕(ごう)に逃げ、爆撃が止まった時に近くの高台を目指した。