そんな中、「遺骸論争」に一石を投じる新たな「発見」があった。家康は、広く流布されている遺言とは別の遺言を残していたのだという。大阪大大学院准教授の野村玄(のむらげん)さん(47)が史料を丹念に調べ、その存在を導き出した。

家康の遺命が書かれた「徳川紀伊和歌山家譜」が掲出された「大日本史料」(東京大学史料編纂所編)
家康の遺命が書かれた「徳川紀伊和歌山家譜」が掲出された「大日本史料」(東京大学史料編纂所編)

 紀伊徳川家の史料(徳川紀伊和歌山家譜)には、「家康の遺命は『遺骸を久能山に3年留め、その後日光山へ改葬する』だった」と記載されていた。

 2代将軍秀忠(ひでただ)が紀伊徳川家の家老に対し、「病気がちで自分はおそらく3年はもたない。遺命に反して1年で改葬したい」との考えも示していた。これを伝え聞いた当時駿河国の領主であった頼宣(よりのぶ)は涙を流し、「秀忠の意向に従うのみである」と答えたとある。

 野村さんはさらに調べを進め、尾張徳川家の初代藩主・義直(よしなお)が編んだ史料「御年譜」の草稿にも同じような「遺命」の記載があることを発見した。この史料によると、遺命をした日は4月7日。この日付は「日光に勧請せよ」とした従来の遺言の数日後にあたる。

野村玄さん
野村玄さん

 徳川御三家のうち、尾張と紀伊の両家の史料に同じ内容の遺言が記されていたことから、野村さんは「息子たちにとって、日光への改葬は規定事項だった。状況証拠も踏まえると、遺骸は日光にあると考えざるを得ない」と受け止めている。

 これを受け、日光東照宮の神職は「ご遺骸の所在を重要視している訳ではない。ただし、東照宮の由来を記した東照社縁起にも『尊体を日光山へ移し』と書かれており、野村さんが明らかにした遺言と合致する」としている。 

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