藤田製陶所内に並ぶ小砂焼

 水戸藩にルーツがある小砂(こいさご)焼は、那珂川町に欠かせない特産品だ。

 水戸藩第9代藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)は、他藩への貨幣の流出を抑えようと藩内で陶土を探し、1830年、当時水戸藩領だった小砂で見つけた。

 同町馬頭郷土資料館の資料などによると、小砂焼の始まりは54年、志鳥村(現・那須烏山市志鳥)で作陶していた斎藤栄三郎(さいとうえいさぶろう)が小砂の庄屋藤田重衛門(ふじたじゅうえもん)に呼ばれ、登り窯を築いたこととされる。斎藤はその後、重衛門の子半三郎(はんさぶろう)と親子の契りを結び、藤田半平(ふじたはんべい)と改称。現存する小砂焼の窯元で最も古い「藤田製陶所」の初代となった。

 馬頭町史によると、小砂焼の職人数は89年をピークに減少する。窯元の経営者が、腕を頼りに各地を渡り歩く「渡り職人」に製陶を頼り、技術の伝承が困難になったためとする。村に衰退への危機感が生まれ96年、技術者育成などを目的とする大山田工業補習学校が設立された。

 1923年の関東大震災後、燃えない道路の建設のため、れんが需要が増えたが、東京までの輸送コストが高かったことなどで恩恵は長く続かなかった。26年、同補習学校(大山田陶器学校に改称)は廃校した。

 その後、経済発展に伴う焼き物への関心の高まりなどがあり、藤田製陶所のみだった窯元は90年ごろ、最大9軒に増えた。同製陶所6代目の藤田真一(ふじたしんいち)さん(69)は「お客さんが多くて良い時代だった。町にも勢いがあった」と振り返る。

 東日本大震災での被災などを経て、現在の窯元は4軒に。藤田さんは「趣味の多様化など、ほかの窯元も含めて大変な時代だが、小砂焼を大切にしてくれる人たちに応え続けたい」と力を込めた。