高校卒業式で生徒一人一人に、新たな門出を祝い花を手渡す須賀さん(右)=2007年3月

 1945年7月12日深夜、「宇都宮大空襲」で焼け落ちる校舎を目の当たりにした。父友正(ともまさ)さんの口からは「学校をやめざるをえないかも」と悲痛な言葉も出たが、それでも500人余の生徒たちは焼け跡の片付けを手伝い学校の再開を待っていた。「空襲に遭いながらも、生徒たちの目は輝いていた。学びたいという意欲にあふれていた。その姿に背を押され、学校を、教育を必ず復興させなくてはという強い思いを抱いた」。この体験が後の、教育一筋の人生の原点となった。

 須賀学園を率い、身命を賭して教育に取り組んできた須賀淳(すかあつし)さんが21日、永眠した。99歳だった。自宅で長男・英之(ひでゆき)さんをはじめ家族に囲まれ、生後10カ月のひ孫が手を握ると、うなずくようなしぐさも見せ、その後、眠るように旅立っていったという。

 学園創設者の栄子(えいこ)さんを祖母に持ち、将来、学園を背負っていく使命を感じていた須賀さんは東大卒業後、文部省(現文部科学省)に入省した。「教育の総本山で学ぶこと、教育に関して高い志を持つ人たちと交わることが、後に生かされるはず」との思いで職務にまい進し、義務教育教科書無償化と教科書広域採択制度など、現在に続く制度の構築に尽力した。

 68年に須賀学園に戻り、生徒の適正、能力、特性に応じた多様な教育である「全人教育」を掲げ、音楽科に次いで調理科を導入し、初年度から定員を大きく上回る受験者を得た。「特色ある教育」に手応えを感じた須賀さんは、その後も時代の進展に合わせて、教育内容の近代化を図り、これが奏功し生徒の人気を集めた。この動きは県内の公立私立高に広がり、一人一人の個性を尊重し伸ばそうという動きが加速した。

 また、学園内に短大音楽科、高校音楽科を持つことから、県交響楽団、県オペラ協会の設立にも参画し、本県音楽振興にも尽力された。「裏方だった。ただ育ててきた生徒が音楽家として活躍する様子を見るのがうれしかっただけ」と謙遜したが、貢献は誰の目にも明らかで2001年には県文化功労者に選ばれた。

 最後に須賀さんとお会いしたとき、子育てなどに悩む私に「お子さんでも部下でも、一人一人の中にある、輝いたものに目を向けるのですよ」とアドバイスを頂いた。現在、宇都宮短大付属高では12月完成を目指し新校舎の建築が進んでいる。戦災から復興し発展を続ける学園。新校舎に集う生徒たちの中にある輝きを、須賀さんは天国からまぶしそうに見守られることだろう。合掌。