全国一の生産量を誇った昭和30年代、「トウガラシもぎり」の作業をする主婦たち(吉岡食品工業提供)

 大田原市におけるトウガラシの栽培は「吉岡食品工業」(同市山の手2丁目)の創業者・吉岡源四郎(よしおかげんしろう)が昭和初期、那須野ケ原の広大な土地に目をつけ大規模な栽培に乗り出したことから始まったとされる。

 戦時中は人里離れた場所で多種多様な品種のトウガラシを栽培し、多くの交雑種が生まれた。その中の優良種を基に研究開発を行い、1955年に同市特産の「栃木三鷹(さんたか)」が誕生した。

 「トウガラシはドルになる」。戦後は朝鮮特需などを背景に輸出農産物として盛んに栽培され、昭和30年代は全国一の生産量を誇った。加工・選別の指定工場だった同社には、市内外で生産されたトウガラシが集められ、年間5千トンもの量を輸出していたという。

 自然に実が落ちないトウガラシは“もぎる”必要があり、農家だけでは人手が足りず主婦たちも総出で働いた。実を取った後の枝は炊事の薪(たきぎ)に使われ、町じゅうが刺激的な匂いに包まれたという。

 その後は社会環境の変化や円高などの影響から、徐々に衰退した。観光資源として復活させようと2003年に「大田原とうがらしの郷づくり推進協議会」が発足。新規の生産者獲得などに取り組み、19年には「生産量日本一」を宣言。今年7月には栃木三鷹が地域団体商標に登録された。

 それでも「郷づくりは道半ば」と同協議会会長も務める同社の吉岡博美(よしおかひろみ)社長(74)は語る。「真っ赤に染まる美しい畑を見ながら、トウガラシ料理を食べて、オリジナルの七味を作る。そんな場所にしていきたい」。赤く燃える情熱が途切れることはない。