「くそじじい」

 そう呼ばれ、愛されていた「無名」の画家が昨年6月、79歳で人生を終えた。足利市出身の矢島想月(やじまそうげつ)さん。どんなに迷惑を掛けられても、屈託のない笑顔で謝られると周りの人は許してしまう。そんな人だった。墨彩画の題材は、お地蔵様やカッパ、鬼など。あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながらの人生が、素朴な作風に深みと奥行きをもたらした。今月15日、終息の地となった日光市で「矢島想月を偲(しの)ぶ展覧会」が始まった。想月さんが「何を残したか」を感じたくて、思わず車を走らせた。

 

 

   蔵を改造した「がろう」という名のギャラリー。黒光りした扉を開くと、柔和な笑みをたたえた想月さんの写真が目に飛び込んできた。

 
 言葉の人でもあった。「幸せは不幸の中に 楽しみは苦労のなかに」「あてにするから腹が立つ 欲をかくからだまされる」。郷愁を誘う絵に添えられた言葉の数々は、見る者を魅了した。本人は「空いているスペースを文字で埋めている」などと説明していたが、その言葉に励まされたファンも多かった。
 
 1941年、足利市生まれ。足利でも犠牲者を出した44年(昭和19年)の空襲では「親に背負われて避難した。3歳だったけど記憶がある」と語っていたものの、真偽のほどは分からない。
 
 県立高校の教師を14年間務めたが、35歳で職を辞した。その理由を聞くと、いかにも想月さんらしい答えが返ってきた。「学校でカラ出張が横行していた。校長に『そんなもんやめろ』といったのに、やめなかったので、こっちが辞めることにした
 
 その後は放浪生活に入る。パチンコ店の住み込みや看板書きなどをしながら、各地を転々とした。著作では「人生の辛酸をなめつくした」と振り返っている。たまたま知り合った人たちから食事をもらったりして、生きながらえた。そして、人生の機微を学んだ。「人の優しさに助けてもらった。愛を知ったんだよ」
 
 7年間の旅を終え、足利に戻ってから、本格的に絵筆をとり始める。独学だった。「人生行く道いっぱいあるが どの道いくかは自分で決める」。知り合いに絵手紙を送っていたところ、美術雑誌の編集長の目にとまり、その雑誌で紹介された。これが転機となり、東京や関西など各地で個展を開くようになった。
 
 最も得意としたのが、「想月仏」とも称されるお地蔵様だ。すべてを受け入れてくれるような優しさをたたえた目。「簡単そうで難しい。あの目にたどり着くまで10年かかった」
 でも根っからのへそ曲がり。「何にも無いのが一番いい 心は正しく豊かがいい」などと「やせ我慢」をし、「舞い込んだチャンスはすべて断った」という。作品をつくるよりも、酒と女性を愛した。「今宵また酒さけ酒」
 
 足利では「いろいろあって」、2003年ごろ、日光に引っ越すことに。そのころからは年1回の個展を開き、そこで1年分の生活費(ほぼ酒代)を稼ぎ、悠々自適の生活を送った。作品づくりはほぼ1カ月。「残り11カ月は、構想期間」とうそぶいていた。「お日さまだって あしたのために ねむるのです。」

 

       
 私が想月さんに初めて会ったのは2011年春。東日本大震災直後で、日光から観光客が消えた時期だった。

 取材で個展に伺った。時に涙ぐみながら作品をじっと見つめる来場者たち。その姿を見ているうちに、ひらめくものがあった。想月さんに日光の魅力を「彩」(再)発見してもらい、見る人を勇気づけてもらいたい、と考えた。

 

 「墨散人(ぼくさんじん)想月の日光彩発見」という企画を下野新聞で連載した。想月さんと記者が観光名所などを取材し、墨彩画と記事で紹介した。計54回。仕事嫌いの想月さんにとっては、苦行だっただろう。

 驚きの連続だった。日光東照宮の回では、陽明門には目もくれず、誰も見ていないような「石灯籠」を描いた。戦場ケ原にはゲタで訪れ、「歩きづらい」といって、すぐに引き返した。6体の石仏を取り上げれば、5体しか描かず、「1体は木に隠れている」と胸を張った。

 人混みは大の苦手だったが、無理やり正月詣でに連れ出した。真剣な表情で手を合わせていたので、願い事を尋ねたら、「60歳を過ぎてからは、いつも同じだよ」。ニヤリと笑い、一言。「生きてるだけで、ありがたや」

 連載では、想月さんのありのままの姿も紹介した。「どんなことでも書いてくれ。こんな人間でも、ちゃんと生きている。悩んだり苦しんだりしている人の励みになるのではないか」とにやけていた。

 

 

 「みんなのお陰で生きてます」

 常日頃から「下手に描きたい」と心から願い、幼児の絵を「最高の手本」と信じていた。「うまく描こう」「売れたい」といった「作為」の排除を目指した。陶芸家の故・瀧田項一(たきたこういち)さんは想月さんを「あうんの呼吸を識っている人。絵も詩句も楽しい。酒の味わいを知っているせいかもしれない」と評していた。

 
 想月さんが逝って1年が過ぎた。今回の「偲ぶ展覧会」を開いたのは、想月さんの最期をみとった「同志」の和智士朗(わちしろう)さん(60)。飲食店「妙月坊」の店主だ。想月さんとの付き合いは35年になる。
 
 「人生の半分近くを矢島さんに費やし、散々迷惑をかけられたけれど、『あてにするから腹が立つ』なんだよね。矢島さんとの時間がなくなって、つまらなくなった。矢島さんは多分、『2回目の偲ぶ展覧会はいつやるんだ』と期待しているだろう」と笑った。
 

 

 「何を伝えたいか 何を残したいか」。想月さんは公募展で評価される作家ではないし、誰もが知る作家でもない。もちろん聖人でもないし、むしろその逆だ。でも、親交があった友人たちやファンの心の中で今も確実に生き続けている。「くそじじい」とみんなの話題にのぼることを、天国から喜んでいるに違いない。

 

 

 

■矢島想月を偲ぶ展覧会 7月24日(20日は休廊)まで。午前11時〜午後4時。入場無料。問い合わせ 妙月坊(日光市山内2381)。0288・25・5025。