「カラリコトントン カラリコトン 足利絵の町 機(はた)の町」。昭和初期に発表された「足利音頭」に登場する一節が、「織物のまち」の繁栄を象徴している。
商品としての足利織物は江戸時代中期に成立した。1859年に横浜が開港すると、外国製の綿糸や染料を輸入し、国内向けの綿織物などを製造していた。
明治に入っても生産の勢いは衰えなかったが、次第に粗悪品も出回った。西南戦争による不景気も追い打ちをかけ、織物産業は打撃を受けた。
立て直しのため、業界は輸出用の絹織物の生産に力を入れた。足利織物講習所を設立して人材の育成を図ったほか、両毛鉄道の敷設や足利銀行の創設といった社会資本の整備も進め、市場の拡大につなげた。
1927年には、平織りの絹織物である銘仙をブランド化した「足利本銘仙」が登場。縦糸を先に型染めする「解(ほぐし)織り」という技法を使ったモダンで斬新なデザインが人気を呼んだ。美人画のポスターやレコードを制作するなど、当時としては画期的な宣伝手法を取り入れ、39年には全国1位の銘仙生産量を誇った。
かつて機屋を営んでいた栄町1丁目、銘仙コレクター橋本晴男(はしもとはるお)さん(78)は「安くてデザインが良いのが当時の女性たちにはまっていた」と説明する。
しかし太平洋戦争に突入すると、銘仙の生産量は減少。戦後は洋装化の波にのまれた。
現在は市内で生産が再開されたが、戦前中心に生産された足利本銘仙は貴重品となった。橋本さんは「残された銘仙を洋服の一部として利用するなどの方法で生かしてほしい」と望んでいる。