2月中旬、かつて鉱員が行き来した薄暗い坑道に、子どもたちの声が響いた。

 「ここで銅を掘っていたの?」

 声の主は、林間学校で日光市を訪れた東京学芸大付属竹早小の6年生約70人。坑道は同市足尾地域の中心部の「足尾銅山観光」だ。

 同校は高学年でここを訪れるのが定番。「公害、銅の歴史。学習したことを肌で実感できるのがいい」。場所によっては大人が頭をぶつけそうな狭い暗がりを、歩き慣れた様子で男性教員が引率していった。

 銅山観光は新型コロナウイルス禍以前、年間の入坑者数10万人超。今は入坑者の4割程度を、小学生の団体客が占める。

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 1973年の銅山閉山から間もなく、古河鉱業(現古河機械金属)は当時の足尾町に地域開発構想を提示した。

 そのメニューの一つが「坑内見学施設」だった。鉱山町ならではの観光資源。町も振興計画に「廃坑跡の活用」を盛り込み、観光の目玉として事業を進めようとした。

 とはいえ坑道はもちろん、周辺の土地も全て所有者は古河。古河が動かなければ、施設の整備は実現しない。

 町は期待を募らせ続け、閉山からおよそ5年。古河が出した結論は、土地を貸すなどの協力はするが「経営には参加しない」。

 かつての坑道は銅山観光として80年4月23日、町直営で開業した。

 「足尾の子どもが着物を着て、テープカットして。にぎやかだった」

 その日から銅山観光で物産店を営む久保田弘子(くぼたひろこ)さん(77)は、思い返すだけで声が弾む。「人がわんさか来るの。お昼を食べる暇もなかったわ」

 折から、戦後の団塊の世代が家庭を持ち、子育て真っ最中の時代。開業後10年以上にわたり、年間30万人超の客が訪れた。

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 銅山観光は今も、小学生団体客を中心に入坑者が絶えない。開業から43年。ずっと黒字経営を維持してきた。

 だが、子どもの団体客が商店街で買い物、飲食をすることはほとんどない。せいぜい足尾の北部、煙害などで荒れた山々が見える銅(あかがね)親水公園や環境学習センターを訪れる程度。

 「街に金が落ちない」。そうつぶやく住民もいる。

 銅の町としての資源を活用し、足尾で観光誘客の要となった銅山観光。坑内で響く子どもたちの声が、商店街に届かないのは惜しい。