「簡単に教訓、教訓って言うけれど、何が本当の教訓なのか…」
水俣病学習のあり方を考える教員グループ「水俣芦北公害研究サークル」の梅田卓治(うめだたくじ)会長(65)が4月下旬、熊本県水俣市内で活動記録を手に吐露した。
「当事者が安心して暮らせるまちをつくらねば、本当の意味で教訓が達成できたとはいえない」。次世代を担う子どもたちが公害問題を学ぶ意味を、教育者として考え続けてきた。
設立のきっかけは50年ほど前、子どもたちの弁論大会に出たある作文だった。水俣病になれば補償で金が手に入る、水俣病という病名のせいで自分たちも迷惑だ-。そんな差別的な内容だった。
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「水俣病を不十分な形で教えた教育に責任の一端はある」。地元教員らが集まり患者の協力を得て水俣病学習の参考資料を作った。

「被害の側に立った授業を組んでいく。傍観者になっちゃいかん、と」。前会長の田中睦(たなかあつし)さん(71)は声に力を込めた。
水俣病に対する無知、不十分な理解から来る差別、偏見は患者本人や家族たちを大いに苦しめた。
足尾銅山鉱毒事件に伴う遊水地計画で強制廃村された旧谷中村(現栃木市)の村民たちは、移住先で「谷中上がり」と特別な視線を向けられた。東京電力福島第1原発事故では、避難を余儀なくされた福島県の子どもたちが転校先で「放射能がうつる」などといじめられる問題が相次いだ。
梅田さんは「子どもたちにはありのままを学んでふるさとと向き合い、水俣を誇れるようになってほしい」と願っている。
ありのままに自分を大切にしながら、人を受け入れ大事に付き合っていきたい-。患者の話を聞き、そんな感想を寄せた子もいたという。サークルは、患者と子どもたちが交流する学習の機会をサポートし続けている。
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1976(昭和51)年のサークル発足から47年。当初は20人以上いた会員は10人に減った。全員が60代以上となり、今も現場で働く教員は1人だけになった。
一方、患者も年を重ねている。水俣病の公式確認は56(昭和31)年。母親の胎内で影響を受け生まれながらに障害があった胎児性水俣病患者たちも当然、高齢化が進んでいる。

「水俣病を取り巻く問題を学ぶことで、自分を取り囲んでいる社会や生き方を見つめ直してほしい」。患者から直接話を聞く機会が貴重になりつつあるからこそ、梅田さん、田中さんたちは今、若手教員らに水俣病学習の意味を伝えている。