「栃木」という名前には最初に移り住んだ人たちの強い思いがこめられているのです-。

 北海道佐呂間町では今春、小学生の社会科の副読本に、栃木県からの入植者たちが切り開いた栃木集落の歴史が2ページにわたり記載されるようになった。

 足尾銅山鉱毒事件や田中正造(たなかしょうぞう)について詳しく扱うのは、初めてという。

 住民たち自身で「もう一つの栃木」を見つめ直そうという機運が、北の大地で根を広げようとしている。

集落南の高台から望んだ栃木の全景。今も残る地名などが集落の歴史を物語る=4月下旬、北海道佐呂間町
集落南の高台から望んだ栃木の全景。今も残る地名などが集落の歴史を物語る=4月下旬、北海道佐呂間町

 同町中心にある町民センターには栃木の開拓史を伝える資料室がある。町が2014年に開設した。入植者が伝えた農村歌舞伎の衣装、初期入植者が故郷へ送った「救済願い書」などを展示している。

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 「すごい歴史。人間の強さを示している」

 町職員時代に開設を先導した武田温友(たけだはるとも)町長(61)自ら案内役を務めてくれた。説明する言葉に、おのずと熱がこもった。

 11年の東京電力福島第1原発事故が契機という。2年後、栃木の住民らによる町代表団を引率し、正造没後100年記念祭が行われた佐野市や旧谷中村遺跡を訪れた。

 原発事故と鉱毒事件-。人々が故郷を奪われる構造に、通じるものがあると感じるようになった。

 「人権を度外視する国策が繰り返されてきた。先人から学び、一人一人の命を重視する社会にしたい」

 学びを深め、以来、栃木を訪れる学者やメディア関係者らの案内役を一手に引き受けている。

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 栃木の牧草地に囲まれた日光山多聞寺は大正時代、日光山輪王寺の末寺が遷座された。外観は一見、民家のようでもある。

 

 「この辺りに宮大工はいなかった。地域の皆で建てたんです」。住職の長野祐順(ながのゆうじゅん)さん(40)が、外観の理由を説明した。

 北海道苫小牧市出身だが、曽祖父と祖父が寒川村(現小山市)から入植した子孫で同寺住職を務めた。その縁で、一時は後継者がいなかった寺に入り20年がたつ。

 「子どもたちが、地元の歴史を知らない」。町のある教育関係者から聞いた話が、脳裏に残っている。

 「栃木に関わる寺として、なぜここに人がいるのか、伝えないといけない」

 高齢化が進む集落で、語り部を務めるのは使命と自負している。思いを語る手に携えた開拓史の資料のしわは、使命感の強さを物語っていた。